130年という重み。

ニューカレドニアから、こんばんは。

 

 

今日は土曜。

少しはゆっくりできるかと思っていました。

 

でも。

週末だろうが、お構いなしな人がいます。

 

猫のドラです。

 

お尻に傷をつけたために、エリザベスをつけたドラは。

夜中にエリザベスでドアを叩きに来ました。

 

 

かなりうるさい。

いつも通り、起きるのは私だけ。です。

 

 

トイレのスペースできちんと用が足せないからと、外に出たくて来たようです。

 

餌を食べるのも一苦労です。

首が痛いだろうな。

 

 

 

 

今日は暖かくいや、時に暑く。

キラキラとした太陽が、、いや紫外線を含んでギラギラとしてたような。

良い天気になりました。

 

 

 

 

先週、主人はチオという町に仕事で出かけてました。

車で2時間ほどの距離の町です。

 

 

 

 

この町は日本人とのつながりがとても深いところでもあります。

 

 

 

それは130年前のこと。

 

 

明治25年のことです。

このチオの港に、日本からの輸送船、廣島丸が到着しました。

約600人もの日本人男性を乗せて。

 

廣島丸が長崎港を出港したのは、1月6日。

チオに到着したのは、1月25日のことでした。

 

 

 

当時外務大臣だった榎本武揚の推奨で。

ニューカレドニアのニッケルの鉱山夫として、たくさんの人たちがはるばるやってきたのです。

 

 

九州を中心とした男性たち

1919年までの27年間。

合計で7000人弱。

 

 

この人たちは5年の労働ビザを持って入国しています。

任期を終えた鉱山夫は、日本に帰国する人、ニューカレドニアに残って地元の産業に加わる人。

農業、漁業、商業、、色々と発展に尽くしてくれました。

みかん農園、コーヒー農園。。。

 

ここ現地の女性と結婚して家庭を持つ人たちもいたわけです。

 

 

 

チオの町は今でもニッケルの露天掘りが行われています。

地図の左に見える茶色いところは山を掘り起こしている部分。

 

ニューカレドニアのニッケル埋蔵量は、無限大とまで言われています。

 

下の方には、日本人墓地もあります。

 

 

 

 

ただ、1941年に真珠湾攻撃が始まると、日本人は敵とみなされて、強制的にヌメアのヌービルという刑務所に収容されてしまいます。

その後はオーストラリアの収容所へ。

戦争が終わると、ニューカレドニアではなく、日本へ強制送還。

 

家族を持っていても、例外にはなりません。

 

 

父親や夫を強制的に連れて行かれ。

加えて、敵国人の家族として肩身の狭い思い。

財産を没収された人たちも。

 

 

結果、日本語を教える人もいなくなってしまいました。

今でも日本の苗字を持つ日系人たちは、日本語を話すことができない人ばかり。

さいとうさん、たなかさん、はやしさん。

たくさん残っています。

 

 

ニューカレドニアでの家族と強制的に離された人たちが戻って来ることは少なくて。

今と違って連絡手段がない時代。

敵国人と罵られた本人が戻るのは、望まれなかったからです。

 

 

 

その人たちが、ニューカレドニアの基礎を作ったと言っても言い過ぎではないでしょう。

戦争のために離れてしまったけど、その心はこの国に残っているのです。

 

 

ヌメアにある、日本人のお墓。祖国の方向を向いています。

 

130年です。

ニューカレドニアと日本の関係は、思ったより長く、太いのです。