ニューカレドニアから、こんばんは。
庭のプルメリアの花がきれいにたくさん咲いてました。
濃いピンクが青空に映えますよね。
今日は昨日の、チオの日本人墓地に出かけた話の続きです。
1892年1月。
日本の広島丸が、日本からの移民を乗せてチオの港に到着しました。
約500人の日本人男性です。
熊本県を中心に、九州、沖縄、西日本の男性たち。
ニューカレドニアにあった、フランスのニッケル会社、ソシエテデニッケルはフランス政府を通じて、炭鉱夫の要請を行いました。
日本だけではなく、アジアの他に国にも。
その当時のニューカレドニアは、流刑地として使われていたこともあって、日本政府は断り続けていたのです。
でも、榎本武明が外務大臣に就任してから、状況が変わりました。
彼は以前から外交は必須だと思っていたのです。
彼自身も、ジョン万次郎から英語を学び、知識を詰め込んでいたといいます。
結局、流刑人と接触しないということを条件に、日本はニューカレドニアに人員を送ることになります。
ピークには、1800人ほどのチオの住民のうち、1300人ほどが日本人だったと聞きます。
1919年まで、6000人もの日本人男性がここニューカレドニアに降り立ったのです。
彼らは5年の労働ビザを持って炭鉱夫として。
ニッケルの発掘だけではなく、ベルトコンベヤーなど設備を整備したりも。
勤勉な日本人は本当に重宝されたと言います。
任期後は、現地の女性と家庭を儲けたり、オレンジなどの果物農園やコーヒー農園を作ったり、漁業に従事したものも。
他には、道路を整備したり、小売業を営んだり。
島のあちこちで、さまざまな職業で、ニューカレドニアの経済を支えてくれました。
帰国した人ももちろんいましたが。
10年と少し前。
ここの日本人墓地の墓石がだんだん古くなってきたのをみかねて、新しくモニュメントを作ることになりました。
力を貸してくれて、日本に帰国することもなくこの地で果てた人たち。
その人たちを敬って。
2012年12月。
落成式が行われました。
ここには229名の日本人が眠っています。
墓石から名前が確認できない人も。。
真珠湾攻撃でここに住んでいた日本人の運命が変わります。
1941年の12月のことです。
フランスと敵国人になってしまった日本人は、スパイとみなされ、シドニーの収容所に連行されてしまいます。
その後、1946年に日本に強制送還です。
ニューカレドニアに戻ることなく。
残念ながら、この時にシドニーに連行されてしまった約1200名の人たちは、ここに残されていません。
シドニーに連行された人たちの残された家族は、肩身の狭い思いをしたのです。
終戦後も、敵視する風習が残り、一部の日系人が日本に移り住むことになったのも。
ニューカレドニアに残った日系人の消息がわからなくなったことも。
何も悪いことをしていないのに。
ニューカレドニアの生活の基盤を作った人たちなのに。
歴史の、戦争の被害者です。
それにしても。
100年以上の前の。
日本とニューカレドニアがこんな形で繋がっていたというのは。
そして今、私がこの地で暮らしているというのは。
なんだか不思議ですね。