ニューカレドニアから、こんばんは。
朝は風もなく穏やかでしたが。
だんだん風が強くなってきて。。
日中はずっと風が大きく吹いていました。
外の洗濯物が踊っている感じ。
春の花、アフリカンチューリップの木を写真に撮ってきました。
この木は、世界三大花木の1つです。
ジャカランタとフランボワイアン。
どちらもニューカレドニアにあります。
でも、ここではジャカランタよりフランボワイアンです。
アフリカンチューリップは春の花。
フランボワイアンは夏の花
ジャカランタは紫。
アフリカンチューリップとフランボワイアンは赤い花です。
今日は聖母マリアの被昇天祭で祝日です。
今年は日曜なので、吸収されてしまっています。
そして日本は終戦記念日。
前回帰国した際に、主人と息子も一緒に、長崎の原爆資料館に行きました。
私は高校3年の時、修学旅行で行ったきりでした。
主人はもちろん原爆がどういったものだったか、原爆投下があったことは知ってましたが。
ここまでだとは思わなかったと、絶句してました。
息子はフランス語の字幕もないから完全には理解していなかったと思いますが、、
原爆の酷さ、戦争の酷さを感じ取ってくれたのではないかと思います。
長崎は本当は原爆投下の候補地ではなかったのです。
アメリカ軍は、小倉の工場一帯と、関門大橋あたりを考えていたようです。
八幡の工場でピストルになる鉄などを作っていたことは、調べてあったから。
でも、悪天候で難しかった。
もし、関門大橋周辺に原爆が落ちていたら、私の父が被曝していたでしょう。
そのとき、下関に住んでいたから。
私は生まれていなかったかもしれない。
日本は原爆の被爆国です。
でも、戦争に関しては加害国の立場を忘れてはいけません。
秘密下に、毒ガスや銃、爆薬など作っていたのです。
日本が作った地雷などで犠牲になった人が数しれず。
ここニューカレドニアは直接の戦地にはなりませんでした。
でも、日本軍の侵攻を阻止するため、アメリカ軍の中継地点になったのです。
1941年12月の真珠湾攻撃がきっかけです。
アメリカ軍は2つの空港を整備しました。
南太平洋に基地があれば、燃料や走行距離など、全く違ってくるからです。
ニッケルの炭坑夫として日本からここニューカレドニアに出稼ぎに来ていた人たちは、敵とみなされ、オーストラリアの牢獄に収容されました。
ニューカレドニアで世帯を持っていた人たちも例外ではなかったのです。
終戦後はニューカレドニアに戻ることは許されず、日本に強制送還させられた人たち、オーストラリアで生涯を終えた人たちもいたようです。
戦争はどちらにしても得になることはありません。
ゲームではないのですからね。
未来のある若者が、お国のためと旅立っていく。
自分の息子だったら。と考えると、、、
青空は平等に広がっているのです。
去年の記事です。
戦争で犠牲になった全ての人たちの死を無駄にしないように。
子供たちの笑顔を守るために。
ニューカレドニアから平和を祈りたいと思います。