ニューカレドニアから、こんばんは。
昨日は崩れたヌメアでしたが、今朝は青空が広がりました。
でも、お昼前には崩れてきて。
降りそうで降らない、変な天気でした。
今日は父の日でしたね。
母の日は日本とフランスでずれますが、父の日は同じです。
大体、バカンスの最終日になります。
すでに私の父は他界しています。
息子が3歳の時。
13年前。
生前に息子に会わせられなかったこと、ものすごく後悔しています。
父は一人で旅立ちました。
2度目の離婚後、一人で暮らしていたのです。
やはり年寄りの一人暮らしは思った以上に大変だったのでしょう。
元々近所付き合いも多くなかった父。
私の子供の頃には賑わっていた商店街も、今は跡形もありません。
同世代の近所の人たちが代替わりをして、大きな家があったところに幾つかのアパートができていたり。
商店街が消えてしまったせいで、年老いた父も、少し遠くのお店に買い物に行かないといけなくなったり。
ますます面倒になって。
こうなったのも私のせいです。
近くにいてて欲しいと言ってくれた父だったのに。
息子が生まれた時は、まだ2度目の離婚前でした。
夫婦仲は円満とは言えないけど、2人でやっていくのだろうと思ってました。
でも、妹が結婚して家を出て。
継母は離婚を決意したわけです。
あの頃には、夫婦の力関係にも歪みが出ていたようでした。
継母は父に暴力を奮うようになり。
妹が鎹になっていたのでしょう。
暴力を我慢してまで一緒にいる意味もない。
父は離婚を承諾します。
もちろん継母が家を出ていく形です。
でも。
それまでも掃除があまり好きではなかった継母。
家の中はすでにぐちゃぐちゃでした。
父がどうこうできる状態ではなかったのです。
その頃私は、息子の子育てに奮闘していました。
義両親も全くあてにできない。
主人ですら。
そして異国の地。
ストレスは半端ではありませんでした。
何度も帰国しようと思ったことか。
今でも思います。
あの時に意地を張らずに、日本に帰国していたら。
父を助けることができたのではないか。と。
父とは何度も電話で話をしました。
たわいものない子育ての話。
実家の近所の話。
自分の子供の頃の話。
実母との離婚のこと。
面と向かって話せないことも多く話せたと思います。
話すたびに、すぐに駆け付けられない場所に住む親不孝な自分を責めました。
後ろめたさも。
父は父で、小さい頃に離婚したことで私には負い目があったはず。
それでも、話しているうちにその父の負い目は、昇華して行ったとは思います。
肩たたき 増える白髪の数数え 笑える父の 苦労知りけり
中学の時、作った俳句。
独り逝かせてしまったこと。
発見が遅れてしまったこと。
私は一生背負っていくのだと思います。